2011年9月5日月曜日

書評_マルコムX著、アレックス・ヘイリィ執筆協力、浜本武雄訳『マルコムX自伝』


マルコムX著、アレックス・ヘイリィ執筆協力、浜本武雄訳
『マルコムX自伝』(アップリンク、1993年)
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「私は兄弟たちのなかでいちばん色が白かった(後にボストンやニューヨークで実社会の生活をしているうちに、私は、色がいくぶん白いということが、あたかも何らかの地位を象徴するものである  そのように生まれつくとは、本当に運がよいことだ、と思い込むほどに頭のイカれてしまっている黒人たちの仲間入りをしていた。だが、さらに後になってからは、私の体内にある白人の強姦者の血の一滴一滴を憎むようになった)。」
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さて、これから話を始めるのはマルコムXという1960年代にアメリカ合衆国でよく知られ、黒人解放運動に貢献した一人の男の人生を語る最も有名な書物についてである。

長いですが、読んでくれると嬉しいです。


自伝といえど、この本はアレックス・ヘイリーというライターが、
マルコムXの言葉を文章にしたもので、彼自身が書いたというと必ずしも正しくはない。
(マルコムXは、仕事が終わると毎晩のようにヘイリーのアパートを訪ね、朝まで自分の人生について語ったという)
なお、アレックス・ヘイリーは1965年にこの自伝を出版した後、1976年の『ルーツ』という自らの自伝的小説で大ヒットを飛ばした。
『ルーツ』はテレビドラマ化され、日本でも放映された。

日本語で550ページにもなる『マルコムX自伝』は、アメリカに関心がある者でなくても、マルコムXという人物の洞察力の鋭さにはっと息をのみ、いたるところに線を引かずにはいられないだろう。
ここでは、彼の略歴を紹介した後、冒頭で挿入した文章のような彼の肌の色に対する意識について焦点を当ててみたい。
また彼の人生を知るに最も手っ取り早い方法はスパイク・リー監督による『マルコムX』(1992年)を鑑賞することである。映画の原作はこの『マルコムX自伝』である。これも3時間を超える大作でいささか疲れる。が、すごく面白い。何回見ても面白いと太鼓判を押すのは、私がこの映画をすでに34回は見たことがあり、また見たいと考えるほどに飽き足りていないからである。
とはいえ、今回はじめて原作を読んでみると、映画とは違った印象を受けた。頑張って英語の原著にトライするときっとまた違う印象を受けるだろう。
日本人が日本語で書いたマルコムXについての文章も少なくない。
もともと日本語で書かれたものに限定するなら、上坂昇の『キング牧師とマルコムX』(講談社、1994年)や荒このみ『マルコムX  人権への闘い』(岩波書店、2009年)が新書なので電車の中でも読みやすく、お勧めである。
忙しい人生を送り、さまざまな評価をされているマルコムXについては、おそらく一つの資源で判断してしまうのは勿体ないだろう。
ありがたいことに、我々は彼についての沢山の文章、あるいはyoutubeなどでは映像を手に入れることができる。
それではもっとも権威ある彼についての資源に従って人生を簡単に追ってみよう。

マルコムXは、1925519日、ネブラスカ州オマハで生まれ、
ボストンのロックスベリィ(異母姉のエラの世話になった)、そしてニューヨークのハーレムで、アルコール・麻薬・ポン引きといった、不良な青春時代を送った。
そして窃盗罪で捕まり、刑務所に入れられる。
彼は兄弟の勧めでネイション・オブ・イスラーム(NOI、黒人の信者を集めたイスラム教団体)の教えを知り、代表のイライジャ・ムハンマドを尊敬するようになる。
また、子ども時代は成績優秀だったものの非行に走ってから全く勉強しなかったが、刑務所では激しく読書をして知識を吸収した。
出所後、NOIのスポークスマンとしてメディアに露出し、信者獲得に尽力する。
いっぽう、彼の人気が高まるとNOI内では彼に対する僻みもあったと言われている。
1963年のケネディ大統領暗殺で、インタビューを受けたマルコムXの発言を記者が文脈を無視して抜粋し、「大統領暗殺は当然の報い」として紙面に載せたため、世間からバッシングを浴び、
イライジャ・ムハンマド尊師から直に謹慎処分を受ける。
またその頃から、マルコムXが完全に信頼、従属しきっていたムハンマドが女性信者に子どもを生ませているという報告を耳にし、それをムハマド本人から事実と聞かされたことがきっかけになり、団体から離れるようになる。
NOIの教えはすべてイライジャ・ムハンマドの口から発せられたことであったが、メッカに巡礼したマルコムXは、NOIの教えは「本来の」イスラム教と違っていることを知る。
同時に、イスラムの教えでは、白人も黒人も平等であり、白人に対する理解が変わる。
というのも、「白人は悪魔である」というのがNOIの教えで、マルコムX自身、かつてはそれを積極的に広めようとしていたのであった。
NOIを脱退し、組織の者から命を狙われている事態が続く(脅迫電話、爆破事件など)。
彼は白人からも恐れられ、恨まれていたし、またこの頃にはFBIの調査対象にもなっていた。
自伝の「1965年」というタイトルの章は、マルコムX自身が自分はいつ殺されてもおかしくない状態であるという意識の下に書かれている。
しかもその被害、心配の種は妻を含む家族にも及んでおり、何とも辛い気持ちになる。
1965221日、ハーレムのオーデュボーン・ボールルームでの講演で壇上に上がり話を始めたところ、16発の散弾に倒れた。
自らの死を予感してあらかじめ呼び寄せておいた妻と4人の子どもたちの目の前での出来事であった。

マルコムXの「X」とは、奴隷としてアメリカ大陸に連行されて以降、すっかり繋がりを絶たれ、わからなくなってしまったアフリカの先祖の名前という意味で、イライジャ・ムハンマドから与えられた。彼の元の名字は「リトル」である。リトルは奴隷であったマルコムXの奴隷主の名字であった。
彼の最終的な本名はNOI時代にもらったムスリム名「エル=ハジ・マリク・エル・シャバーズ」である。なお、聖地を巡礼しNOIを脱退してからは、イスラム教のスンニー派に改宗している。

それでは、彼の子ども時代に注目して、肌の色に対する意識について考えてみたい。

マルコムXの両親はともにマーカス・ガーヴェイの信者で、とくに父親のアール・リトルは、バプティストの説教師で、ガーヴェイの世界黒人向上協会(UNIA)の熱心な組織者だった。
母親のルイズ・リトルは、英領西インド諸島のグレナダ生まれであった。彼女は自分の父親が白人であることを恥じていた。父親については何も話さなかったが、色がとても白かった。

自分の血に入っている白人の血について言及する活動家は少なくない。
ブラック・パンサー党の創設者の一人ヒューイ・ニュートンや2000年大統領選挙で民主党から立候補しようとしたアル・シャープトンなどの著作にも見られる。
また小説ではあるが、WEB・デュボイスの『黒人のたましい』第13章「ジョーンの帰還」は、黒人男性が白人女性を狙う「性的に制御のきかない」存在とされる一方で、
白人男性が黒人女性を強姦してきたことをほのめかしている。
実際、白人の奴隷主が奴隷の黒人女性を強姦し生まれた子どもは少なくなかった。
ニュートンやシャープトンと同じく、マルコムXの自伝にも、
自分との連続性を意識しながら、白人男性と黒人女性の性交を問題視したり回顧する言説的試みが見られるのは興味深い。

「私がぶたれたのは、ほとんど母からだけだった。どうしてそういうことになるのかと、私は何度も考えた。父は白人嫌いではあったけれども、潜在意識的には黒人に対する白人の洗脳に非常に影響されていたので、色の比較的黒くない子供にひいきする傾向があったのだと私ははっきり信じている。私は兄弟中でいちばん色が白かった。当時たいていの親たちは、色の白い子供には、黒い子供に対するよりもほとんど本能的に甘かったようだ。これは、『混血(ムラトー)』が、見た目がそれだけ白人に近いという理由で上等あつかいされた、あの奴隷制時代の遺習がそのまま伝わったものだった」。
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白人の血を恥じる母親がマルコムXの色の薄さを気にしていたのとは対照的に、体が大きく色の黒かった父親が色の白さゆえに彼をひいきしていたのを、本人は指摘している。
マーカス・ガーヴェイを信奉し、黒人であることに誇りを持てといっていた父が、白人至上主義をどこかで内面化していたことを、マルコムXは見逃さなかったようである。
彼に対する冷たい母親の態度への言及はまだ続く。

「いまになってそのことを考えてみると、ほかの子供たちより私の肌の色がいくぶん白かったために父親がかわいがってくれ、それと同じ理由で母は私につらくあたったのは確かだという感じがする。母自身は黒人にしては非常に白いほうだったが、自分より肌の黒いものに好感をもっていた。そういうわけで兄のウィルフレッドは特別母に気に入られていた。彼女がよく私に向かって、外へ出て『もうちょっと黒くなるようにお天道様にあたっておいで』といったのを覚えている。私が薄い肌の色ゆえに優越感を持たないようにするためには、彼女は労を惜しまなかった」。
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マルコムが生まれた後、一家はオマハからウィスコンシン州ミルウォーキー、そしてミシガン州ランシングへと移動した。
父親の勇気ある活動は、「『善良な』黒人たちのあいだに『騒動の種をまいている』」としてKKK団から襲われることしばしばであった。
ある日父親が「自殺」したとして家族に報告があった。もちろん、黒人の解放を訴える父親の活動を恨んでいた白人に殺されたのであるが、
生前沢山かけていた生命保険が降りず、「未亡人」と8人の子どもたちの貧しい暮らしが始まった。
蓄えはすぐに底をつき、結局母親は民生委員に精神病院に入れられ、兄弟はばらばらに引き取られた。
母親の冷たい態度の記述は、彼の母親と一緒に過ごした短い時間の中で、受け入れてもらえなかったというのが多少響いているのかもしれない。

刑務所の中でマルコムXNOIの教えに目覚め、幼いころの肌の色に関する記憶はさておき、ますます白人を憎むようになる。
当時合衆国では公民権運動が盛んであったが、マルコムXは黒人と白人の融合をめざすこの運動を痛烈に批判した。

が、NOIを脱退し、イスラム圏やアフリカへ旅に出かけた後、白人に対する認識が変わったことはすでに述べた。
公民権に対しても、NOI時代よりは、やわらかく言及するようになった。

「私流のデモ行進のやり方とマーティン・ルーサー・キング博士の非暴力の行進のやり方がちがっていたように、目標への近づき方はちがっても、めざすところは常に同じである。博士の行進は、無防備の黒人たちに向けられた白人の残虐行為と悪行を、劇的に明らかにしている。…(略)」
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子ども時代に裏付けされた彼の肌の色に対する意識、白人あるいは公民権運動に対する態度の変遷に注意を払うことは重要である。
とくに、家庭の外では黒人としての誇りを掲げながらも、家庭内では白人に対する劣等感が息子へのひいきに出てしまう父親、
白人の血を恥じながら色の白いマルコムに特別厳しくする母親、
そして「そういうもの」なのだと両親を見ていたマルコムX
一人の活動家の記憶を通じて、肌の色に対する意識の複雑さを考えさせられるのだ。


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